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とってもお気に入りの焼豚があるので紹介したいと思います。
ついつい購入してしまう絶品の焼豚
「肉の御嵩屋」は岐阜市八百津町のお店で創業70年。TVでも数多く紹介されるほどの店であり私自身も外せない店のひとつです。
徹底管理された岐阜県産の豚に、御嵩屋特製の醤油を使っています。
この焼豚の柔らかさと味付けは絶品です。この焼豚が美味しすぎてご飯が何杯でもすすむのです。
所詮焼豚なんてと思わずに試して欲しい逸品となります。我が家では好評すぎて取り合いになってしまうほどなのです。
独り占めしたい気持ちを抑えて家族で分け合いますが…内心は山盛りにして食べたい気持ちでイッパイです。
我が家の焼豚
我が家では本当にオーソドックスにご飯の上に焼豚をのせ、温泉たまごをトッピングするだけの「焼豚丼」で食べます。
何て事のないご飯にのせただけじゃんと言われると思いますが、本当に美味しい物は単純にそのモノを楽しめるのです。これが本当にご飯が進むのです!
ごはん(お米)大好きな我が家にとってはご飯にのせるだけで素敵なご馳走の出来上がりですよ。もう何もいらないのです。強いて言うなればビールがあれば最高ですかね。
これ以上の食べ方は無いのではないかと思うくらいに食が進みます。特別な調理がいらないので是非お試しあれ!
まあ焼豚だけを酒のつまみにしても最高ですが…。
御嵩屋をぜひ覗いて下さい
お気に入りの焼豚はここから見れますので、少しでも気になる方は見ておいても損はないと思います。
見て頂くと分かると思いますが、とにかく食べたい衝動に駆られるのです。騙されたと思って一度食することをお薦めする一品です。
肉の御嵩屋がある八百津町は「杉原千畝」の出身地
岐阜県八百津町は、あの日本のシンドラーと呼ばれる偉大なる「杉原千畝」の出身地なのです。
第二次世界大戦中にナチスドイツの迫害からユダヤ人約6000人の命を救った、自分の身にも危険が迫る中で一個人として素晴らしい功績を持つ人物がこの八百津町出身とは胸が熱くなります。
その事実だけで八百津町の見かたが変わります。
杉原 千畝はどういう人
杉原 千畝(1900年 – 1986年)あなたはミスター・スギハラの名前を知っているでしょうか。世界中のユダヤ人から日本のシンドラーと呼ばれて全世界の人たちから尊敬の念をむけられている八百津町出身の外交官。
1940年7月18日、第2次世界大戦のさなか、リトアニアの日本領事代理をしていた杉原は異様な雰囲気の中で目をさましました。領事館から外を見ると周囲をたくさんの人がとりまき、血走った目をして何かを叫んでいます。すべてがユダヤ人。ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めて集まってきた人々でした。
前年にはナチスドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスがドイツに対して宣戦布告をして戦火はヨーロッパ中に拡大。ナチスはユダヤ人を捕まえて次々と強制収容所に送り込んでいました。収容所に入れば悲惨な運命が。大量虐殺…ホロコースト。
そのナチスから迫害の魔の手を振り切ってきたユダヤの人たちが杉原のもとに押しよせたのです。当時のユダヤ人たちの逃げ場はたったひとつ。オランダ領キュラソー島。しかし、ここに行くためにはソ連、日本を通過する以外道はなかったのです。
このとき日本とドイツは同盟関係。ユダヤ人を助ければドイツに対する裏切り行為になります。杉原はビザ発行の許可を得るために日本の外務省に電報を打ちますが返事はありません。何度も何度も打った結果、やっと返ってきた回答は「ノー」。
「私の一存で彼らたちを救おう。そのために処罰をうけてもそれは仕方がない。人間としての信念を貫かなければ」と決心した杉原は、それから懸命にビザを書き続けました。腕が腫れあがり、万年筆がおれても杉原は書き続けました。
杉原千畝は、ユダヤ人へのビザ発給により約6千人もの尊い命をナチス・ドイツの迫害から救った外交官ですが、ごく一般の環境と家庭の中で育った普通の人でした。その普通の人が、自国の文化を愛しながらも他国の人と共感できる国際人としての資質を持ち、ユダヤ人大虐殺が行われた第二次世界大戦という特異な環境の中で、人間として偉大な行為を行ったのです。
1900年1月1日、八百津町で誕生。小さい頃からおとなしくて優しい性格。それでいて一度自分で決めたことは必ずやり通すという熱血漢一ミスター・スギハラ。
ユダヤの人たちはこの名前を決して忘れることはないでしょう。
参考:八百津町HPより
ちょっと歴史を考察しながら食べる焼豚もなかなか良い物ではないでしょうか?